募集賃料は上がったのに、入居中の家賃は上げられないのか。継続賃料と賃料増額請求の実務

「同じ間取りの隣の部屋が、今月から9万5,000円で決まりました。うちの入居者はまだ8万円のままです。更新のタイミングで同じ水準まで上げられますか」。賃料の上昇局面に入ってから、保有中のオーナーの方から増えたご相談です。
結論を先に申し上げます。上げられます。ただし、募集賃料と同じ水準までは、まず届きません。法律も鑑定実務も、入居中の賃料は新しく募集する賃料とは別の物差しで測るようにできているからです。この物差しを、私たち鑑定士は継続賃料(賃貸借の継続にあたって、その当事者間で妥当と判断される賃料)と呼びます。
本コラムでは、募集賃料と入居中の賃料がなぜ食い違うのか、借地借家法が増額請求になにを求めているのか、鑑定士が継続賃料をどう試算するのかを順に整理し、交渉前に揃える資料と拒否された場合の一般的な流れをお伝えします。個別の法律判断は弁護士に、税務の取扱いは税理士にご確認ください。
募集賃料と入居中の賃料は、別の世界で動いている
指数は「家賃は上がっていない」と言っている
総務省統計局の消費者物価指数(2020年の平均を100とする指数)のうち民営家賃は、2026年2月時点で101.1、前年同月比0.7パーセント程度の上昇にとどまっています。ポータルサイトの募集賃料が都心部で数パーセント動いているのに指数がほとんど動かないのは、この指数が入居中の契約も含めた家賃全体を捉えているためです。
いま市場で成立している賃料と、いま実際に支払われている賃料の間には構造的な時間差があります。契約期間中の賃料は固定され、更新時も自動的に改定されるわけではない。あなたの物件で募集賃料と現行賃料に差が開いているのは、管理が悪いからではなく、この構造のためです。
新規賃料と継続賃料は、答えている問いが違う
不動産鑑定評価基準は賃料を新規賃料と継続賃料に分けています。新規賃料は、新たに賃貸借契約を結ぶ場合に成立するであろう賃料。継続賃料は、賃貸借の継続に係る特定の当事者間において成立するであろう経済価値を適正に表示する賃料です。
この「特定の当事者間において」という限定が決定的です。新規賃料は、まだ誰とも決まっていない不特定の借り手を前提に市場が付ける値段を問います。対して継続賃料は、すでに何年も関係が続いているこの貸主とこの借主の間でいくらが妥当かを問う。問いが違うのですから、答えが一致しないのは当然です。
したがって近傍同種の募集賃料は、継続賃料の上限の目安として働くだけで、着地点ではありません。差額のうちどこまでを賃料に反映させるのが当事者間で公平かを判断する作業が、継続賃料の評価です。現行賃料が市場からどれだけ離れているかという見立ては物件を買うときにも論点になり、取得段階での検証はオーナーチェンジ物件の利回りは本当に実力かで扱いました。保有中の改定は、その検証を売主ではなく入居者に対して行う作業だとお考えください。
借地借家法第32条は、増額請求になにを求めているか
3つの事由のいずれかで「不相当」になったこと
借地借家法第32条第1項は、建物の借賃が次のいずれかにより不相当となったときは、契約の条件にかかわらず、当事者は将来に向かって借賃の額の増減を請求することができると定めています。
- 土地もしくは建物に対する租税その他の負担の増減
- 土地もしくは建物の価格の上昇もしくは低下その他の経済事情の変動
- 近傍同種の建物の借賃との比較
評価替えで公租公課が増えた、周辺の地価と賃料水準が上がった、同じ建物の他の部屋が明らかに高い賃料で成約している。こうした事実が土台になります。逆に「もう10年据え置いているから」という貸主側の事情だけでは要件を満たしません。
また、賃料の増額請求に、更新拒絶や解約申入れで必要となる正当の事由(同法第28条)は要りません。退去してもらうことと賃料を上げることは法律上まったく別の話で、この2つを混同したまま交渉に臨むと話がこじれます。
一方、上げられない契約もあります。一定期間借賃を増額しない旨の特約があればその定めに従い(同条第1項ただし書)、定期建物賃貸借については同法第38条が、借賃の改定に係る特約がある場合には第32条を適用しないと定めています。サブリース契約や募集時に付けた不増額特約が残っていないか、まず原契約を確認してください。
請求は到達した時点から、将来に向かって効く
増額請求は、相手方に意思表示が到達することで効力を生じ、その時点から将来に向かって賃料が変わるものと一般に理解されています。過去に遡って差額を請求することはできません。つまり、書面が届いた日がすべての起点になり、「次の更新のときにご相談させてください」という口頭の前置きでは起点が立ちません。実務で内容証明郵便が使われるのは到達日を残すためですが、管理会社経由の通知で足りる場面もあります。送付の是非と文面は弁護士にご確認ください。
係争中は「相当と認める額」で足りる。ただし年1割
協議が調わないとき、請求を受けた借主は、増額を正当とする裁判が確定するまでは自分が相当と認める額を支払えば足ります(同条第2項)。多くの場合それは現行賃料そのままで、請求を出した瞬間から新賃料が入金されることはありません。
ただし同項ただし書は、裁判が確定した時点で既払額に不足があれば、その不足額に年1割の割合による支払期後の利息を付して支払わなければならないと定めています。年1割は現在の金利環境では相当に重い水準です。借主側から見れば争い続けるほど負担が積み上がる構造で、この規定の存在自体が協議を前に進める力を持ちます。
鑑定士は継続賃料をどう求めるのか
不動産鑑定評価基準は、継続賃料を求める手法として差額配分法、利回り法、スライド法、賃貸事例比較法の4つを挙げています。1つで結論が出るものではなく、複数を適用して試算値を出し、事案の性格に応じて調整します。なお賃貸事例比較法は、継続賃料が当事者間の個別事情を織り込んだ賃料でそもそも外部に出てこないため、実務では適用場面が限られます。募集賃料は調べられても、「あの建物の入居8年目の部屋がいくらで改定されたか」は調べようがないのです。
差額配分法:新規賃料との差額を分ける
対象不動産の経済価値に即応した適正な賃料(実質的には新規賃料の水準)と現行賃料との差額を求め、そのうち貸主に帰属する部分を現行賃料に加算する手法です。もっとも直感的で、交渉の場でも説明しやすい。
判断の中心は配分をどうするかにあります。実務では差額の2分の1を配分する例がよく見られますが、これは決まりではありません。契約の経緯、据え置かれた期間、改定の協議をどちらが怠ってきたかといった事情で配分は動きます。
利回り法とスライド法:直近合意時点を起点にする
利回り法は、基礎価格に継続賃料利回りを乗じて純賃料を求め、必要諸経費等(公租公課、維持管理費、損害保険料、空室等損失相当額など)を加算する手法です。継続賃料利回りは、直近合意時点の純賃料とその時点の基礎価格との関係を基礎に求めます。
スライド法は、直近合意時点の純賃料に、その後の経済情勢の変動を表す変動率(消費者物価指数や地価の変動、賃料指数など)を乗じ、必要諸経費等を加算する手法です。
2つに共通するのは直近合意時点を起点に置くことです。これは契約締結時ではなく、賃料について当事者が最後に合意した時点を指します。過去に一度改定しているなら、そのときが起点です。この時点をどこに置くかで試算値が変わるため、改定の記録は必ず残しておいてください。
想定されるケース:月8万円の1室を改定する
前提と3手法の試算
抽象化した想定のケースで数字の動きを見てみます。特定の物件を前提としたものではありません。
都内の木造アパート1室。現行賃料は月8万円で、8年前の更新時に合意したまま据え置かれています。必要諸経費等は月1万2,000円、したがって純賃料は月6万8,000円。近傍同種の募集賃料は月9万5,000円まで上がり、直近合意時点の基礎価格1,500万円に対し現在の基礎価格は1,700万円と判定されたとします。
| 手法 | 考え方 | 試算賃料(月額) |
|---|---|---|
| 差額配分法 | 募集賃料との差額1万5,000円の2分の1を現行賃料に加算 | 8万7,500円 |
| 利回り法 | 基礎価格1,700万円に継続賃料利回り5.44パーセントを乗じ、必要諸経費等を加算 | 約8万9,000円 |
| スライド法 | 純賃料6万8,000円に変動率1.08を乗じ、必要諸経費等を加算 | 約8万5,400円 |
利回り法の継続賃料利回りは、直近合意時点の純賃料年81万6,000円を当時の基礎価格1,500万円で除した5.44パーセントを基礎としています。3つの試算値を調整すると、継続賃料はおおむね月8万7,000円と判定される、という流れです。
この数字から読み取れること
増額幅は月7,000円、年間で8万4,000円です。募集賃料との差1万5,000円に対し、実際に動かせるのはその半分程度。「隣が9万5,000円なのだから、うちも9万5,000円」という発想が通らないのは、このためです。
また、前提の置き方が違う3手法が8万5,400円から8万9,000円という近い範囲に着地した点にも意味があります。試算値が揃うことは判定の確からしさを支え、逆に大きく割れる場合はどこかの前提を見直せという合図になります。
この幅でも出口への影響は小さくありません。同じ構成の部屋が8室あり、すべて同幅で改定できたとすると年間の純収益は67万2,000円増え、還元利回り6.5パーセントで割り戻せば収益価格はおよそ1,000万円押し上がる計算です。賃料改定は目先のキャッシュフローよりも売却時の価格に効いてきます。賃料と価格の関係は積算価格と収益価格はなぜ食い違うのかでも整理しました。なお還元利回りは立地・築年・遵法性で大きく変わり、ここでの数値は説明のための仮定です。
交渉の前に揃える資料と、拒否されたあとの流れ
揃えるべきは3点
- 契約の履歴(原契約書、更新契約書、賃料改定の合意書)。直近合意時点を特定でき、不増額特約の有無もここで確認できます
- 負担の増加を示す資料。固定資産税・都市計画税の納税通知書を数年分並べ、火災保険料や管理委託料の改定があれば併せます
- 近傍同種の賃料水準。ポータルサイトの募集賃料は集めやすい反面、成約価格ではないという弱点があるため、自社物件の直近の成約実績や管理会社が持つデータを添えます
これを揃えても評価が割れるときに、第三者である鑑定士の出番になります。オーナーが自分で作った試算は、入居者から見れば利害関係者の主張にすぎません。私たち鑑定士は改定が通っても通らなくても報酬が変わらないため、その意見は当事者の立場から切り離された資料として機能します。
協議が調わなければ、まず調停
借主が応じない場合でも、いきなり訴訟を起こすことはできません。民事調停法第24条の2は、宅地または建物の賃料の額の増減の請求に関する事件について訴えを提起しようとする者は、まず調停の申立てをしなければならないと定めています。調停前置主義と呼ばれる仕組みです。
調停では裁判所が選任した調停委員を交えて話し合いが行われ、賃料の相当額が争点になるため鑑定評価書や意見書が提出されることは珍しくありません。不成立に終われば訴訟に進み、そこでは裁判所が鑑定人を選任することもあります。手続の選択と進め方は弁護士にご確認ください。
費用と、どの書面を選ぶか
継続賃料の評価をご依頼いただく場合、当事務所では鑑定評価基準に則った鑑定評価書は30万円から(顧問鑑定士サービスの会員価格で20万円から、いずれも税別)、基準に則らない価格等調査報告書は対象と調査範囲により10万円台からが目安です。
選び方には線引きがあります。手元で改定幅の当たりを付けたい段階なら価格等調査報告書で足ります。入居者に提示する、調停や訴訟に出すというように第三者が読む前提があるなら、鑑定評価書を選んでください。基準に則らない調査を後から鑑定評価書へ格上げすることはできないため、提出先が見えているなら最初から鑑定評価書のほうが結果的に早く、安く済みます。この使い分けは不動産鑑定はいくらかかるのか。鑑定評価書と価格等調査報告書の違いで詳しく整理しています。
なお、増額が実現した場合の収入計上の時期や、評価費用を必要経費に算入できるかといった取扱いは、税理士にご確認ください。
まとめ
入居中の家賃は上げられます。ただし募集賃料と同じ水準までは届きません。新規賃料と継続賃料は答えている問いが違い、法律も鑑定実務も、その差額の全部ではなく一部を配分する設計になっているからです。ここを理解しないまま「隣と同じ額に」と迫る交渉は、まず通らないと断言します。
要点を振り返ります。
- 民営家賃の指数が2026年2月時点で前年同月比0.7パーセント程度の上昇にとどまるとおり、募集賃料の上昇は既存契約に時間をかけてしか伝わらない
- 借地借家法第32条第1項の増額請求には、公租公課の増減・不動産価格や経済事情の変動・近傍同種の賃料との比較のいずれかによる不相当性が要る。更新拒絶の正当の事由とは別の話
- 請求は意思表示が到達した時点から将来に向かって効き、過去には遡れない
- 係争中の借主は相当と認める額を払えば足りるが、確定時に不足があれば年1割の利息が付く
- 継続賃料は差額配分法・利回り法・スライド法・賃貸事例比較法で試算する。想定のケースでは、募集賃料との差1万5,000円に対し改定幅は月7,000円程度に着地した
- 協議が調わなければ、訴訟の前に調停の申立てが必要(民事調停法第24条の2)
賃料を長く据え置いてきた1棟をお持ちの方、相続や購入で引き継いだ契約の賃料が市場から離れていると感じている方。改定は、根拠を組み立ててから動くほど通りやすくなります。感情的な対立になってから評価を取りにいくと、入居者からは交渉の道具と受け取られてしまうためです。
収益物件の適正価値を客観的に把握したい投資家の方は、顧問鑑定士サービス(月額5,500円・税込)で、どの部屋から改定に着手すべきか、増額幅としてどこを狙うかの壁打ちを承っています。継続賃料の鑑定評価書・価格等調査報告書はいずれもお見積りを差し上げますので、契約書と直近の納税通知書をお手元にご相談ください。


